大竹文雄, 平井啓

「残念ですが、もうこれ以上、治療の余地はありません」。久坂部羊著『悪医』の冒頭の文章である。あなたががん患者だったとして、医者からこのように言われたら、大きなショックを受けるだろう。当然、治療の可能性について、何度も問いただすに違いない。 『悪医』の主人公の一人で、外科医の森川良生は、「もうつらい治療を受けなくてもいいということです。残念ですが、余命はおそらく三カ月くらいでしょう。あとは好きなことをして、時間を有意義に使ってください」と説明する。副作用で命を縮めるより、残された時間を悔いのないように使ったほうがいいから、患者のためを思って告げるのだという。 確かに、がんという病気と治療法を熟知し、何度も同じような患者を診てきた医者からみれば当然の判断かもしれない。しかし、そういうことを言われるのは、一人一人の患者にとっては、生涯で初めてのことである。森川医師から治療法がないと言われた、もう一人の主人公であるがん患者の小仲辰郎は、「治療法がないというのは、私にすれば、死ねと言われたも同然なんですよ!」「もう先生には診てもらいません!」と絶望して診察室を飛び出す。医者にとっては合理的で当然の判断でも、患者にはそうではなく「悪医」と受けとられることがある。両者の間には、医療行為の受け止め方に深い溝があるのだ。 医者である森川は、末期がんの患者が、長生きを望みながら、副作用が強く、命を縮める医療を選択するという心理がわからない。この心理は、行動経済学では損失回避として知られている。人は損失を確定することを嫌うあまり、少しでも損失がない可能性を含んだ選択肢を選んでしまう。冷静に考えれば、損失を確定した方が望ましいが、そうはできない。一生に一度しか直面しない問題ならなおさらである。 医者からすれば、どうして患者は、合理的な選択をしてくれないのか理解できない。一方、患者からすれば、どうして医者は統計的な数字をあげるばかりで、意思決定を迫ってくるのか理解できない。なぜこのような医者と患者のすれ違いが生じるのだろうか。